ガラ紡 ガラ紡績 反毛 特紡 軍手 

 昔懐かしいガラ紡について

  解 説 
 従来の生産性の低い手つむぎによる紡糸に代わる、効率的な紡績方法の考案が各地で
試みられる中で、臥雲辰致(がうんたつち、1842〜1900)は、明治6年(1873)
に太糸をつむぐことのできる紡績機械を完成させた。
さらに明治9年には細糸をつむぐことができるように改良し、
翌年1月松本北深志町に工場を設立して水車を動力とした営業を開始した。

第一回内国勧業博覧会出品のガラ紡績機 (復元)

 ガラ紡の製造工程  原料綿⇒ふぐい⇒打綿機⇒よりこ巻き機⇒ガラ紡績機⇒合糸機⇒撚糸機⇒製品

ふぐい 打綿機
よりこ巻き機 ガラ紡機
合糸機 ガラ紡機  
       
水車 手回し式のガラ紡績機

                 

 新城地方(愛知県東部)で使用されていた。 現存する手回し式のガラ紡績機は、
これ以外には、日本綿業倶楽部のものだけである。
綿筒」の径が細いこと、動力の伝達に歯車だけでなく調車を使っていること、原動軸
が一本あること等の違いがある。


  


 
ガラ紡のしくみ

 紡績の基本作業は、繊維をそろえる、繊維を引き伸ばす(ドラフト)、繊維に撚りをかける、
できた糸を巻き取るの4つである。洋式紡績機といわれるリング紡績機やミュール紡績機は
これらの工程を分割し、単純な作業をする機械を連結して行うのに対し、
ガラ紡績機は、ドラフト以下の工程を一台の機械で行ってしまう。洋式紡績では糸むらの
発生を抑えるため10倍以下のドラフトを繰り返して行うが、ガラ紡績機では数千倍という超
高ドラフトにより、綿からいきなり糸を紡ぐ。
機械が単純で設備投資が少なくてすむ一方、どうしても糸むらが避けられない。ガラ紡績
機は、綿うちされた綿を棒状にして綿筒(つぼ)に入れ、駆動軸からハヤ系により遊合に
回転を伝え、遊子から羽根と呼ばれるツメを介して、綿筒を回転させて引き出される糸に
撚りをかける、撚りがかった糸は、糸巻きによって巻き取られる。撚りが強くかかりすぎて糸
が太くなると綿筒は上方に上がり、羽根がはずれ、綿筒の回転は止まる。撚りがかからなく
なるので、糸は引き伸ばされ一定の太さを保つ。少しずつ綿筒内の重さが変化
するので糸の太さを一定にするため、天秤の重りの位置を変えて調整している。


三河地方のガラ紡

 ガラ紡績機が、明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会に出品されると、各地に普及
していった。
以前から木綿の産地であった三河地方では、甲村龍三郎、野村茂平次、宮島清蔵らのによ
って水車ガラ紡が、また、鈴木六三郎によって船ガラ紡が始められた。
額田郡を中心に急速に広まり、明治10年代後半には日本最大の生産地となり、また洋式紡
績が軌道に乗る前の紡績業を支える役割を果たした。 当初は三河木綿を原料としていたが、
明治20年代に入ると品質、生産性の両面でまさる洋式紡績に太刀打ちできず、洋式紡績工
場から出る落綿を原料として太糸の生産に転換して競合を避け、独自の発展を遂げた。

岡崎の水車ガラ紡
 ガラ紡績機が第1回内国勧業博覧会に出品されると、間もなく三河地方にも導入され、
明治12年(1879)頃には滝村で野村茂平次.宮島清蔵らが水車にガラ紡績機を結合
することに成功した。これ以後青木川、郡界川、秦梨川、乙川等の流域で水車を動力と
したガラ紡が急速に普及した。 明治15年(1882)には岡崎を中心とする額田郡の紡錘
数は三河地方全体の紡錘数の過半数を占め、この地方における最大の生産地となった。


西尾市の船ガラ紡
 明治11年(1878)に鈴木六三郎が矢作古川で船ガラ紡 に成功すると、翌年には矢作
川沿いの中畑町においてもはじめられ、船ガラ紡の中心地となった。 これ以降急激に発
展し、最盛期の明治31.32年(1898.1899)には64隻を数えたが、水害の危険性が高
いことや発動機・電気の普及等に伴い陸工場が次第に多くなり、昭和8年(1933)を最後
に姿を消した。
太糸の生産の主流であった。


安城市のガラ紡
 安城町誌によれば、市域におけるガラ紡の始まりは明治13年(1880)、福釜村の都築綿
糸工場とされる。
福釜村は、隣村の箕輪村榎前村.赤松村とともに市域のガラ紡の中心的な地域になった。
 長田川や道田川.問屋川.隈田川などに水車をかけて操業したが水量が安定しなかった
ために、大正10年(1921)に電気が引けるとほとんどの工場は電力工場へと転換していった。
太糸の生産の主流であった。


三河地方でのガラ紡の発展
 全国で、最もガラ紡が発展したのは三河地方であった。三河地方では、甲村龍三郎や
野村茂平次などの先覚者が、試行錯誤のすえ、明治12年頃に臥雲機を水車に統合する
ことに成功し、その後、ガラ紡が急速に発展することのなる。 三河地方でガラ紡が発展し
た主な理由は次の三点である。まず、三河地方は山間部が多く、江戸時代から米搗水車
や紋油水車などの水車が多く存在しており、この水車が臥雲機と結合してガラ紡水車に
転化することが可能であり、また、ガラ紡が始まった時点でも水車を設立するのに適した
場所が多く残されていたこと。 次に。三河地方が江戸時代から全国有数の綿作地帯で、
紡績業の原料の綿花が豊富に生産されていたこと。 最後に、やはり三河地方が江戸時
代から大量の白木綿を江戸に送る綿織物の生産地帯であり、しかも、近隣に知多綿織物
生産地帯を初めとする多くの綿生産地帯があり、綿織物の原料である綿糸の需要がきわ
めておおきかったことである。 
 このような好条件を持つ三河地方では、ガラ紡が始まると従来の米搗水車などがガラ紡
水車に添加することにとどまらず、新規に水車を設立してガラ紡を開業するものも続出し、
ガラ紡は急激な発展をたどるのである。  三河地方でガラ紡が始まって数年後の明治15
年、この地方のガラ紡機の紡錘数は6万5千錘を超えている。郡別に見ると、滝村を中心と
する額田郡が約3万6千錘と圧倒的な比重を占めている次いで宝飯郡が約1万錘、幡豆郡
、碧南郡が約8千錘となっている。 
現在の安城域でガラ紡が盛んにおこなわれたのは福釜村を中心とする地域であった。
 この地域には長田川.隈田川が流れていたがいずれも傾斜が緩やかで水量も多くなかっ
たのでガラ紡が始まる以前の明治11年には、水車場はわずかに一カ所存在するにすぎな
かった。
 明治13年に明治用水が完成すると、両河川は悪水用河川
の性格を強めたが、水量は増加したため、ガラ紡の開始とあいまって水車の新設が相次いだ。
 福釜村では、明治13年にガラ紡が始まり明治16年には少なくとも7カ所の水車の存在が
確認でき、明治26年には水車は25に達している。 また、安城市に近い矢作川の中畑.
鷲塚.米津あたりでは(船紡績)おこなわれた、矢作川は、このあたりでは上流のように川に
傾斜がなく、落差をとって水車をかけることが困難だったため、川に船を浮かべ、船の両側
に外輪船のように水車を取り付け川の流れで水車を回転させて動力を得たのである。 
船紡績は、明治12年に中畑で始まり、翌年には鷲塚でも行われた。 明治15年、船紡績
を行う(機械船)は、中畑で46艘、鷲塚で15艘に達し、米津にも4,5艘合ったと言われて
いる。
  
   西洋式機械紡績の発展とガラ紡の方向転換
 明治14年、明治政府が設立したわが国最初の西洋式機械紡績で、紡績部門では唯一の
官営模範工場ともなった。
 愛知紡績所が岡崎の大平で生産を開始し、翌15年以降、三重紡績など明治政府が殖産
興業政策によって設立を援助した民間の西洋式機械紡績、いわゆる二千錘紡績が生産を
始める。 
 このようにして、西洋式の機械紡績糸とガラ紡糸の競争が始まる。そして、しばらくの間、
機械紡績糸がガラ紡糸に圧倒されることになる。
その理由は、西洋式機械紡績会社が二千錘と経営規模が小さく、利益があがらなっかたこと、
その多くが(洋式水車)を動力として使用しており、渇水時には操業ができなかったこと、そし
て、技術者がまだ未熟で品質のよい綿糸が生産できなかったことなのである。 しかし一万錘
以上の経営規模を持ち、動力として蒸気機関を採用する西洋式紡績会社が次々と設立され、
技術者が紡績機械を使いこなすようになると形勢は逆転し、明治23.24年頃にガラ紡は壊
滅的な状況となった。
 明治26年頃から、ガラ紡は西洋式紡績会社の落綿(綿屑)を原料として、綿毛布.段通
(敷物用織物)の原料糸などを生産し始める。 このようにガラ紡は西洋式紡績会社
の製品とは競争関係のない新分野に進出することにより再び発展に向かうことになる。
 しかし、ガラ紡は従来の綿糸生産を放棄してしまったわけではなかった。ガラ紡糸は手紡
糸と同様に節があり、機械紡績にはない特殊な味があって、それを使用した綿布は日本人
の伝統的嗜好に合うものであった。とわいえ機械紡績の急激な発展の中で、こうしたガラ紡
糸の生産を継続するためには、なみなみならぬ努力と苦難が必要であった。


現在のガラ紡
 現在は愛知県松平地域に数軒有るだけである。

オーガニックコットン使用した織物



ガラ紡で作った生地 (30cm×30cm)

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